■家々を水に沈めた大水害を知る人は

花壇といえば、決まって語られるのが早川牧場と仙台市動物園だ。早川牧場は、第4代市長を務めた早川智寛が大正初期に創設した牧場で、評定河原には乳牛が放牧され、花壇には牛舎や早川家の屋敷があった。牧場は戦後も維持され、ここで製造された早川牛乳を飲んだ人は少なくない。高橋慶子さんの家も早川牛乳をとっていた。「毎朝、カタカタ音を鳴らして足の悪いおじいさんが配達してくれたのよね」という高橋さんの話は、「広瀬川の記憶Vol.7」で紹介した千葉栄三さんの話とまったく重なる。

仙台市動物園は花壇の突端あたりに昭和11年(1936)年に開園したが、戦時中に猛獣が射殺され終戦前に閉園となった。今野さんは小学生のころ廃墟のように残っていた動物園のサル山で遊んだという。

では、水害はどうか。今回お会いした今野さん、高橋さん、そして高橋さんのお隣に暮らす浅田たかさんは、花壇におびただしい被害をもたらした戦後の水害のことをご存知だった。戦後の数年間、仙台は度重なる台風に苦しめられたが、中でも昭和25年のヘレン台風くずれの熱帯低気圧では200ミリの降雨で広瀬川が氾濫し、花壇は濁流に飲まれた。

8月5日の河北新報は「哀れ・母子を呑む 花壇住宅一瞬にして全滅」という見出しを掲げ、「評定河原方面では旧動物園跡の市営花壇住宅が全滅した。午前九時二十分ごろ対岸の元虚空蔵のがけ崩れがあると同時にコンクリートの堤防約三十メートルが欠壊、濁流が一帯を呑んだ。『危ないぞ』と叫んでいた皆川清さん(六七)が一瞬にして、濁流の犠牲となった。評定河原野球場は中段まで水浸しとなり、その中にフトンやタンスが点々とうかび、さながら一大プールのようなありさまだった」と、花壇の被害を報じている。花壇の流失家屋は、80数戸に上った。

川に残る水害の痕跡

昭和25年の水害で、崩落し運ばれてきた大石。

当時8歳だった今野さんは、水没した評定河原と、2階建ての家屋の上で人が助けを求めながら流されていった光景を覚えている。高橋慶子さんは明治生まれだった姑から何度も水害の話を聞かされた。「無口な人だったけど、水害のことになると別でした。川まではひと続きだったから洪水のときは床上浸水して、泥をかき出すのが大変だったって」。身を持って知った川の恐ろしさと川のそばに暮らすための用心を、家族に何としても伝えたかったのだろう。

評定河原橋の少し上流には、流れの真ん中に巨石が一つあるが、これもこのときの濁流が運んできたものだと、今野さんはいう。濁流となった水のパワーを思い知らされる話だ。

水害から60年。死者を出したこの水害のことを知る人は、花壇にどのくらいいるだろうか。