■土地の記憶と暮らしを伝える

昨年3月の東日本大震災で、花壇では崖が2カ所、崩落した。ちょうど大橋をくぐり流れてきた水がぶつかるあたりだ。

特に、花壇の先端部に近いところでは、川にせり出して残っていた崖がばっさりと落ちて上に立つ住居に危険が及ぶほどだった。「経ヶ峯の崖もぽろぽろ落ちてきて怖くてねえ。木も落ちてきたし」と高橋さんが話すように、経ヶ峯も、震災後は写真の時代とくらべるとさらに崩落と風化が進んだように見える。

地震で崩落した崖

こうした被害が広瀬川流域で相次いだ。

昭和25年の水害のあと堤防が築かれ、大倉ダムの建設によって水量が減って以来、私たちは広瀬川の流れを安定的なものとしてとらえがちだが、それ以前、川は大雨や洪水でつぎつぎと姿を変えるものだった。三方を水に囲まれた花壇は特にその変化が大きかったといえるだろう。

藩政時代初期の絵図(1640年代)では、花壇の一部が「琵琶首」とよばれていたことからも想像できるように、花壇は根元が細く先端が丸い楽器の琵琶のような形をしており、川はその根元まで回り込んで片平丁の下を流れていた。

やがて元禄年間の絵図(1690年代)になると、本流は変わらないものの現在の評定河原グラウンドが大きな中州として現れ始め、その東側を流れる支流も生まれる。やがて時代が下がり昭和初期になって、本流が埋めたてられ、現在のようにもともとの花壇と中州がつながった。

昭和25年の大水害では、花壇の先端と中州が水に浸かったのだが、住んでいた人はそこが川が運んだ砂礫で生まれた州だということを知っていただろうか。

かつての川岸

この道の下あたりに本流があった。

花壇を歩くと、どこにいてもたっぷりと降り注ぐ光を感じる。浅田たかさんは、花壇までタクシーに乗ると運転手さんに「市内ではここがいちばんいいところですよ」といわれるのだそうだ。たまに帰省する子どもたちも、好んで歩いて街中へ出かけていく。

いったい土地の記憶は、どのくらい長い間、そこに暮らす人々の間に共有されるものなのだろうか。城下町建設以来、400年が経過してもまだ保たれている風光明媚な花壇の魅力。一方で風化したように見える水害の恐ろしさ。かつてその土地がどんな環境のもとに広がり、どんな暮らしの営みがあったかを知らないと、心地よく安心な毎日を送ることはできないのではないか。未曾有の被害をもたらした大震災から1年。歴史を知り、暮らしの記憶を探り、それを伝えることの必要を、川面を眺めながら考える。