■進駐軍の建物で学んだあのころ

東北大学史料館には、米軍キャンプが東北大学に移管された当時の地図が残っている。それを見ると、現在の北キャンパス南ゲート入り口そばに礼拝堂がつくられ、隣には学校が立ち、ロータリーが整備されて建物が整然と並び、米兵と家族が暮らす一つの町だったことがわかる。市民の立ち入りは禁止されていたが、日曜学校への参列は許され、子どもたちの行動は大目に見られたらしい。後藤さんは「新聞配達にくっついて入り込んだよ。カマボコ型の兵舎を何だか変な建物だなあと思いながら眺めたよ」と話す。

昭和33年(1958)、大村さんは東北大学教養部2年生として川内キャンパスで学んだ。「西公園前で市電を降り、仲ノ瀬橋を渡り二高の前をキャンパスまで歩きました。当時、僕はコルビジェ(仏の建築家)に夢中でね、コルビジェを思わせる武基雄さん設計の市公会堂を通学途中に眺めてはわくわくしていたね。キャンプは計画に基づき、水道、下水、電気といったインフラを整え、建物を立てるという手順を踏んでつくられているのがよくわかって、日本にはない計画的な整備に目を見張ったんですよ」。それが、将来の都市デザイナーを生む遠因だったのかもしれない。

キャンプ時代の建物の中で、東北大生の多くが記憶するのは、川内大講義室となった礼拝堂だろう。学生たちは異国情緒あふれる三角屋根のこの建物を「チャペル」とよんで親しんだ。「チャペルでフランス語の劇をやったことがあるんだよ。僕は大道具つくって、ギャルソンの役もやったんだ。あの頃はやせてたからなぁ(笑)」と大村さんは当時をなつかしむ。

大講義室として使われたチャペル

キャンプの中心にあった三角屋根の礼拝堂は大講義室となり大勢の学生が集った。

10年後、キャンパスには学生運動の嵐が吹き荒れた。昭和43年(1968)に入学し、いまも仙台に暮らすOさんは「チャペルで集会をしてたら、機動隊に囲まれて出られなくなって。朝になってようやく騒ぎがおさまってから、もう大丈夫と声をかけあって帰ったの。朝もやの中をね。44年の6月かな」と若き日を振り返る。

夏の朝、川にはもやが立ち込め、キャンパスをおおったのだろう。進駐軍が駐留していた時代も、跡地が東北大学キャンパスとなってからも、川内に繰り広げられた暮らしの遠景には必ずといっていいほど広瀬川の存在が浮かび上がってくるのを知らされた。

現在の川内北キャンパス南ゲート

近年の整備で、川内キャンパスから進駐軍の建物は全て姿を消したという。