■地下水が豊かで木々が茂る左岸の風景

愛宕大橋は、対岸(左岸)では西光院の墓地を貫通した。それまで国道4号は、荒町を南下し西光院の前で直角に折れ東に進んでいた。ここで、長町方面へ急カーブし走る市電を記憶する人も多いだろう。

西光院は、仙台開府のころから、愛宕山を対岸に仰ぎ見る川岸のこの地で時を刻んできた寺である。「墓地の移転はなかなか大変なことなんです。檀家さんには県外の人もいますし無縁の墓もあります。古い時代は土葬ですから、手掘りしたら骨や髪の毛、歯がそのまま出てきたりしましてね。焼いてから葛岡に埋葬し直したんですよ」と、住職の跡部周正さんは檀家を説得して進めた当時の苦労を振り返る。

それまでは国道側に山門があったが、架橋後は、愛宕大橋側にも山門を設けた。愛宕大橋の西側に橋をまぬがれた墓地がわずかに残っている。

明治33(1900)年に、現在の愛宕橋のわずか下流に吊り橋が架けられるまで、このあたりに橋はなく、愛宕山の山すそにあった愛宕神社の別当寺、誓願寺と対岸の七郷堀の取水口付近を結ぶ「誓願寺渡し」があるのみだった。

右岸はなだらかな河原だったようだが、左岸では崖を上り下りしなければならなかったから、行き来にはかなりの難儀を強いられたに違いない。西光院の崖下は川が深くよどみ、「西光院淵」の名で知られていた。

西光院淵 

西光院淵では流れが崖にぶつかり、えぐって淀みをつくる。崖には竹と椿が育つ。

山が重なり、崖は深く切り立ち、野趣あふれる自然景観が続いていただろう。「私が子どものころは、岸にもうっそうと木が茂り、キツネもタヌキもいました。崖を下り、対岸へ泳いだり渡ったりしたものです。向こう側の川岸は砂利でした。川の水はそれはきれいでね」と、跡部さんは遊び親しんだ戦前の川の風景を思い起こす。

跡部さんが指摘するのは、付近の湧き水の豊かさだ。「清水小路から湧き出した水は滝のようになって川に流れて米をついたりする水車を回していました。土樋も樹木豊かで掘割があって水が湧いていたし、荒町小の東側の門の前の湧き出す水では、よく泥の長靴を洗いました。東隣の真福寺さんとの境も川だったんですよ」。

文字どおり、いま市立病院のある清水小路付近は地下水が豊富で、地上にあふれた水は南に流れ、ちょうど西光院のわきで広瀬川に注いだ。仙台は広瀬川の河岸段丘上につくられたまちで、中心部は南に向かって傾斜しているから、南端に当たるこの付近は最も地下水が豊かだったといえる。

水は樹木を育て、新鮮な空気とともに広瀬川に流れ込んで生き物を育んだ。「左岸の崖はいつも染み出した地下水でぬれていましたよ」という跡部さんの話からは、清流を守り杜の都を見えないところで支えてきた地下水のありかが見えてくる。