昭和6年と聞いて、仙山線の開通年だと思い至った。昭和4年に仙台~愛子間が開通した仙山東線は、6年には作並まで延長開業された。このとき、広瀬川の左岸を通って定義にお参りに歩いた人たちは仙山線を利用するようになり、にわかに白沢駅前がにぎわいをみせたのではないだろうか。機が熟したのをみて天野氏が橋を架け、観光振興策に打って出たに違いない。

■小さな橋が守った山間地の暮らし

いま、天野橋の対岸は見上げるばかりの緑の壁で、バスが上がったとは信じ難い。対岸の大原は西に青下川、東に大倉川の峡谷を見下ろす崖の上にある。

大原に渡ってみようと、定義参りの人が通る県道に入り大倉橋を通った。橋の上から青下川をのぞき見て足がすくんだ。何と深い峡谷。地形図を見ると標高は約180メートル。天野橋を渡したのは、まだまだ低いところなのだ。

大倉橋から下流を見る

左側の崖の上が大原。遠くに見える白い崖は野川橋付近。

大原は、一面に黄色い稲穂が揺れていた。バスが通った崖までは近づけなかったが、この地区を80年以上も見続けてきたという早坂しげよさんの話が興味深かった。

「野川橋と天野橋は、定義さんにお参りする人でにぎわったね。みんなうちの前の道通って定義へ行ったんだよ。私は米しょって天野橋渡って、熊ケ根の精米所まで行ったもんだったよ。でなければ、青下ダムの上の橋を渡った。向かい側から見て、ここに橋があればすぐなのになあ、と眺めたねえ」。

早坂しげよさん

大原で生まれ育った早坂さんは、大正末からこの地の移り変わりを見てきた。

青下第一ダムは、昭和9年、仙台市民の飲料水確保のためにつくられた。その上に管理用に取り付けられた青下橋を、大原の人々が生活の道として使っていたとは。そして、天野橋も峡谷にはばまれた地域の暮らしをしっかりと支えていたのだ。

水道記念館に立ち寄ると、玄関ホールに飾られた一枚の大きな油絵が目に入った。熊ケ根、白沢、大原、そして青下ダムとその水源地一帯を俯瞰した中に、野川橋と天野橋も描かれ、2台の赤いボンネットバスが走っている。

右上には「昭和八年盛夏 橋本諒三作」の文字。ということは、昭和8年にすでに天野橋が架けられてバスが運行していたのだろうか。コンクリート橋の前に木橋の歴史があるのかもしれない。もっと地元の人を訪ねたくなった。

行く手をさえぎる深い谷や川の大きな蛇行、傾斜地をはい上がるように開かれた坂道。こうした利便性からはかけ離れた自然環境を受け入れ、暮らしを営んできた道半、熊ケ根、大原の人々。

その脳裏に刻まれた記憶の断片を拾い集めると、手をかけ困難を乗り越えてきた知恵や思いが見え始める。一枚の川の写真から知り得ることは、まだまだたくさんあるようだ。

描かれているバスの運行

手前が野川橋、奥が天野橋。2つの橋をつないでバスが走る。(仙台市水道記念館藏)

手前が野川橋、奥が天野橋。2つの橋をつないでバスが走る。(仙台市水道記念館藏)


参考資料/『仙台市青葉区宮城地区平成風土記』(新しい杜の都づくり推進協議会 平成15年)
※ 今回の記事で紹介されている内容は、散策マップ「広瀬川へ行こうVol.4」のドライブモデルルートの一部に掲載しています。