■仙台の町場の暮らし支えた奥山と川

流木を引き上げた大橋近くの木場の写真が残されている(1ページ目に掲載)。昭和初めのもので、前列中央で子どもを抱くのが若かりし頃の留吉さんだ。

「この右端の人が私のおじの石垣義一、左端が石垣よしの。夫婦ですがねえ、よしのさんが大橋下の木場の実権を握り、どこにどのぐらい薪を売るか、采配をふるっていたんですよ。なかなかの美人でね」と話すのは、大倉に住む石垣光衛さん(大正15年生まれ)である。

祖父の石垣多利衛さんが、大倉流木の経営者だったことから、子ども時代、よく祖父に連れられて木場にいったという。人夫を使い現場を仕切る女性の横顔が印象に残ったのだろう。

石垣光衛さん

石垣家三代目の光衛さんは、祖父や父に連れられて木場へ行った。昭和20年7月の仙台空襲の時も仙台にいたという。

石垣さんのお宅には明治末からの柳行李2つ分の流木売買の記録が残っている。お嫁さんの多満代さんが奥から出してくださったその資料を畳の上に広げ、写真を撮らせていただいた。

たとえば、大正四年の「流木卸賣捌簿」をみると、当時東二番丁にあった酒造家、岩井久兵エ宅には、1月に4回、2月に10回、3月に7回もの流木薪が納品され、6月までに納めた薪は262棚に上っている。

1棚が5尺四方とすると、大店が相当量の薪を必要としたことがわかる。役所や軍隊、学校などが立地した仙台の町場の暮らしにとって、奥山と、薪を運んでくる広瀬川の水はまさしく生命線だった。

大蔵流僕の売買の資料

大きな行李2つに及ぶ流木薪の売買の記録。大規模な木流しを詳言する貴重なものだ。
造り酒屋の岩井久兵エに納められた流木薪の数、値段が記されている。

木流しが消えて60年以上。そうした記憶を持つ人ももはや数えるほどだろう。だが、そばで話を聞いていた孫の光一朗さんがいう。「子どもの頃、連れられて八幡町あたりに行くと、“あんだのどご、すごい会社だったんだぞ”ってよく話しかけられたんです。じいちゃんから武勇伝みたいなのも聞かされたしね(笑)」。

祖父から孫へ、薄れながらも記憶は伝えられているようだった。