■戦後の水害で2度流失、念願の永久橋

根岸側から対岸を見る

宮沢橋を上流側から眺める。流された根岸橋は100メートルほど上流にあった。

昭和22年(1947)8月13日、現在の宮沢橋から100メートルほど上流に、幅3メートル、長さ89mほどの「根岸橋」が完成した。ようやく安心して渡れる橋が架けられたのである。その半年ほど前、東北大学片平構内の校舎や大学病院の工事などを手がけた建設会社「石井組」(青葉区一番町)の社長、河合宇三郎らが尽力し「宮沢渡架橋工事期成会」を結成、実現させたようだ。河合は仙台空襲で東二番丁の自宅を失い、着の身着のまま根岸に暮らしていた長女のもとに身を寄せたらしい。

「でもね、その橋も親子3代の渡り初めまで決まっていたのに、だめになったの」と話すのは、河合の三女で父親とともに根岸に移り住んだ田手通子さんだ。9月15日、仙台を襲ったキャサリン台風は、竣工間もない橋を押し流した。翌16日の河北新報は「根岸橋呑まる」と報じている。

悲劇は2度続いた。3年後の昭和25年8月3日、今度はヘレン台風くずれの熱帯低気圧が「宮沢橋」を破壊している。8月4日の河北新報には、人々がぼう然と見守る中、木橋が途中でぐにゃりと曲がり川に沈み込む写真が載っている。牛坂さんの「完成して、明日、市に引き渡しという日に流された」という記憶は、どちらの流失なのだろうか。水の引いた8月12日、宮沢橋には仮橋が架けられた。「一銭橋」から「根岸橋」へ、そして「宮沢橋」へ。名前を新しくして架け替えても人々の願いはかなわなかった。

田手さんは根岸から宮城学院へ通学したという。それは「根岸橋」後の仮橋だったと思われる。「手すりなしだから、もう怖くて怖くて。そのうち片方にだけ手すりがついたけど、雪なんて降るとつるんつるんでしょ一銭橋は…」。近くの方たちが、渡し賃のいらなくなったあとも「一銭橋」の名を長く使い続けてきたのが興味深い。

一銭橋あたり

一銭橋は現在の宮沢橋のやや下流にあった。ちょうどその辺りで若い人たちがバーベキューを楽しんでいた。

恐ろしい二つの水害のあとだから、護岸工事が完成し、昭和30年8月に、長さ150メートルの鋼桁橋が竣工したときは、人々のよろこびはひとしおだったろう。渡り初めは、いまも南染師町で営業を続ける「越後屋染物店」の親子3代だった。ご主人に「父、祖父、ひいおじいさんの親子3代です。何でもその前にも話があったらしいのですが、それはだめになったらしくて」とうかがった。予定されていた根岸橋の渡り初めがかなわなかったのだから、8年後の晴れ姿だったわけだ。

架橋から50年。橋は歩道がもうけられたり、補強工事がなされたり修復されたが、基本構造は架橋当時のままだ。そして、一銭橋がそうだったように、河原町方面と西多賀方面をつなぎ続ける。その交通量も機能も、粗末な木橋とはくらべものにならないけれど。