■武家屋敷跡に生まれた西公園

写真では、西公園の北側を鋭く蛇行して流れる広瀬川の姿も印象深い。仙台のまちは、約400年前、青葉山に築かれた城と川をはさんで向かい合うようにつくられた。中でも、片平丁から北に延びる段丘は重要で、特に位の高い家臣団が配置された。

その広大な武家屋敷跡につくられたのが西公園である。その歴史は、明治8(1876)年に伊達安房、古内左近之助、大内縫殿の3邸5,000坪を「桜ケ岡公園」として整備したことに始まる。やがて市の東に榴ヶ岡公園がつくられると、西に位置することから「西公園」の名が定着していった。公園内には、立町小学校、公会堂、偕行社(かいこうしゃ:軍の将校たちが集うクラブ)が建ち、常盤木女学校も開校した。昭和3(1928)年には東北産業博覧会が開催され、40万をこえる人出となった。

この頃、公園には噴水や小動物園がつくられて市民憩いの場となっている。当時の写真をみると、噴水のある池のまわりには「鳳山」「亀兵」と、老舗の造り酒屋、味噌醸造屋の名前の入ったベンチが並び、子どもを抱く男性の姿がある。ゆったりと過ごせるおしゃれなスポットだったのだろう。

戦前の西公園

後ろの建物が公会堂。噴水の前でくつろぐ人が多かっただろう。(仙台市戦争復興記念館蔵)

明治時代から公園の中で茶屋を営んできた「源吾茶屋」の多田きえさんは幼子を連れてよく小動物園を楽しんだ。「小さなクマが飼われ始めてあっという間に大きくなってねえ。動物園といったって、あとはサルが1匹と鳥っこがいるくらい(笑)。」

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若林区かすみ町在住の朝比奈フクさんは、昭和10年に常盤木女学校を卒業した。常盤木の校舎は、20世紀を代表するアメリカの建築家F・L・ライトに学び、ともに働いた遠藤新(えんどうあらた:1889~1951)の設計によるものだった。学校では「校舎は帝国ホテルと同じ」と聞かされたという。帝国ホテルを設計し途中解雇されたライトに代わり、実際的に工事を完成させた遠藤をわかりやすく表現したのだろう。

卒業アルバムに残る校舎は、それはモダンだ。そしてセーラー服の女学生たちは、バザーを楽しみ西洋料理を体験しスケートに興じ、広瀬川を背景におすましした表情で写真におさまっている。昭和はじめの、まだ戦争の足音が聞こえない時代の明るい学校生活ぶりが伝わってくる。

遠藤新氏設計の校舎

河岸段丘上に瀟洒な姿を見せる常磐木女学校の校舎。この建物が今残っていたらと思わずにはいられない。(朝比奈フクさん提供)