■さまざまな時代の暮らしを映して流れる広瀬川

西公園にくり広げられた平穏な暮らしは、戦争が悪化する中で失われていった。「クマは危険だというので、毒殺されてね…」と多田さん。

やがて空襲に備えて防空壕が掘られるようになった。「いまの野球場のところに、肴町の人たちが、診療所もあるような大きなのを掘ったねえ。空襲は夜中に始まって、肴町の方からもうみんな布団かぶって逃げてきたんだから。焼夷弾というのは落ちて散らばるの、その前に誰かが逃げろ、と声を掛けて、みんな防空壕に飛び込むの。爆撃の間はどーんどーんと、中の土が舞うくらいに揺れてね」。

多田さんは生後9ヶ月の長男をおぶって、3才の娘の手を引いて逃げ込み、九死に一生を得た。「お水を頂戴」と泣く女の子がいた。爆撃がようやく静まった明け方、外に出るとその子は足首を失い冷たくなっていたという。目の前で命を落とす子どもをどうすることもできない嘆きや悲しみや怒り…。公園には、そんないたましい時間も流れた。

空襲は公会堂も常盤木の校舎も偕行社も焼き尽くした。でも、なぜか源吾茶屋は残った。写真の中で、野球場の南に見えるのがそれである。店は、昭和36年に現在地に移転し、変わらず名物のごま餅を商っている。

育ったヤナギの木

戦後、多田さんが挿し木したヤナギの木は驚くほどの大木になった。後ろに源吾茶屋が見える。

移転前、生活が落ち着いた頃、多田さんは生け花で使った雲龍ヤナギの小枝を公園に挿し木した。50年がたったいま、木は見上げるような大木になった。

あらためて写真に戻ろう。空襲で焼け野原となった跡に建てられた低い家々。藩政時代以来の道筋と、その上に戦災復興で割り出された大きな幹線。西公園には、戦後の教育文化の拠点となる天文台、プール、ホールがつくられている。

何とめまぐるしくまちは変わることだろう。それぞれの時代の役割を担い、物語を紡ぎながら、街並みも人の暮らしも変わる。だが、水の流れは悠久だ。まちと好対照を成すように、広瀬川は城下町仙台がここに築かれたときの姿のまま、まるで過去と未来をつなぐように上流から下流へと流れる。

戦後つくられ50年に渡って親しまれてきた施設がつぎつぎと閉館し、いま西公園は改変のただ中にある。10年後、20年後、川面にはどんな風景が映し出されていくのだろうか。

公園で遊ぶ親子

戦後生まれの仙台市民なら、公園の施設で遊び、学んだ経験があるはずだ。