■アリの巣のように張りめぐらされた亜炭坑

だれか亜炭採掘のことを教えてくださる方はいないだろうか。『昭和32年 商工名鑑』をたよりに、やっとのことで亜炭採掘業を営んでいた方を探しあてた。戦後、太白区芦ノ口の亜炭坑を譲り受け、数人の坑夫を雇って昭和40年頃まで亜炭の採掘していたという手島弘さん(仙台市在住)である。

手島弘さん・せえ子さん

戦後、奨められて亜炭の鉱業権を買った。採掘した亜炭を売りに、六郷、七郷、閖上までいったという。

「青葉山の下を掘っていたのは、山屋敷の木田さんという人だった。あそこは、厚さが1メートルもあるようないい炭が出たからねえ。坑道はアリの巣のように広がってもう穴だらけだったはずだ。石垣がくずれたのは、俺は炭のせいだと思っていたよ(笑)。天守台から下ってくる途中、右手に坑口があって、坑夫と買いにくる人たちで、それはにぎやかだった」。

亜炭のことは「炭」とよんだのだそうだ。手島さんは、「前掛沢(八木山)」「堂ヶ沢(長町)」「宛名倉(八木山)」など、記憶の中の亜炭坑の名前を上げ、掘り進め方からトロッコを使っての積み出し、三輪車での販売までを活き活きと話してくださった。

採掘は、地盤沈下の引きがねになることもあった。昭和26年(1951)9月12日の読売新聞は、「沈下する政宗公の墓」という見出しで、坑道によって政宗の石室周囲の石畳が傾斜し、地滑りの恐れがあることを報道している。恐らく、そうした鉱害があちこちで起きていたことだろう。手島さんは「水をポンプで汲み上げながら掘り進んだ」と話し、「坑道跡からは赤水が出ることもあったな」と振り返ってくださった。地中の水脈、ひいては川、まわりの田や畑への影響もあったかもしれない。

しかし、それでも亜炭は、ある年代以上の人たちの記憶の中になつかしさを感じさせるものとして生き続けている。煙、匂いが五感を揺さぶり、生活の場面を思い起こさせるからだろう。

経ヶ峯の絶景

この川原に立つと崖のスケールが実感できる。大切に守りたい広瀬川の風景。