■中島丁に牧場があった
一方で、写真の右手に写る住宅街─お屋敷町といわれてきた中島丁、角五郎は、すっかり様変わりした。樹木に埋もれるように立ち並んでいた家並みは一蹴されて、箱のようなマンションがぼこぼこと視界をさえぎる。
広瀬川と大崎八幡宮の鎮守の森の気配をどこにいても感じられるのがこのあたりのいちばんの魅力だけれど、近い将来、壁のようなビルにおおいつくされてしまうかもしれない。
中島丁
それにくらべたら、写真の何と牧歌的なこと。
「だって、戦後になってもうちの向かいに牧場があったんですから。牛たちがねぇ、毎朝ぞろぞろ歩いて尚絅のところから川原におりていって、一日草を食むんですよ。だから通りには牛のフン」と笑って話すのは、中島丁に暮らして3代目という手島貞一さんだ。
それは、「愛光舎工藤牧場」で、いまの宮城一女高校隣り、中島丁77番地にあった。牧場を経営していた工藤哲夫さんに連絡をとることができた。往時を語る工藤さんの話は明快で、よどみがない。「私の父が、大正2年に、同じ場所で牧場を経営していた塚田牧場から権利を買い始めたものなんです。牛を飼って牛乳をしぼって瓶詰めにして売っていたんですよ。仙台には、そういう牧場が、終戦時で36軒もありました」。
興味深い話だ。明治45年の市街地図をみると、中島丁北側には、かなり大きな敷地を占める「塚田牧場」の名が記されている。江戸時代、中島丁には、中級の武士団の屋敷が置かれていた。おそらく、その屋敷が敷地の広さはそのまま、牧場へと引き継がれたのだ。「広さは1100坪。牛は多いときで50頭いました。東北地方建設局の許可を得ましてね、仲ノ瀬橋から牛越橋までの川原に牛を放していたんです」。
澱橋の川原
このあたりの川原が牛の放牧場だったとは。50頭もの牛たちがのんびりと川原でくつろぐ風景とは、どんなものだったろうか。工藤さんは昭和32年まで牧場を経営していたというから、写真の中学生たちが橋の上から眺めていたのは牛の姿なのかもしれない。
まちには、単に「お屋敷町中島丁」「清流広瀬川」とだけとらえてしまってはこぼれ落ちるたくさんの物語が埋もれていることを、教えられたように思った。いま牧場跡にはマンションが立ち並ぶ。そこに牛舎があったことを知る新しい住人はいないだろう。
そして、同じように中級武士の屋敷そのままのうっそうとした庭を誇っていた手島さんのお宅も、10数年前、相続などの事情からマンションになった。苦渋の選択の中で、手島さんは、敷地内の仙台市の保存樹木3本を残し、生まれ育ったこの場所に住み続けるという2つの意志を貫かれた。
高さ30メートル、見上げただれもがため息をもらす巨大なタブノキ。その隣りに直立するカヤ。そして南斜面で青々と葉を茂らせる五葉松。樹齢300年をこえる大木は、まぎれもなく江戸時代からここにあり、明治、大正、昭和の時代を通して、まちと川を見下ろしてきた証言者だ。そこには、屋敷林をくぐり抜けて遊んだという手島さん自身の思い出も重なる。
このあたりの川原が牛の放牧場だったとは。50頭もの牛たちがのんびりと川原でくつろぐ風景とは、どんなものだったろうか。工藤さんは昭和32年まで牧場を経営していたというから、写真の中学生たちが橋の上から眺めていたのは牛の姿なのかもしれない。
まちには、単に「お屋敷町中島丁」「清流広瀬川」とだけとらえてしまってはこぼれ落ちるたくさんの物語が埋もれていることを、教えられたように思った。いま牧場跡にはマンションが立ち並ぶ。そこに牛舎があったことを知る新しい住人はいないだろう。
茂るタブノキ
高さ30メートル、見上げただれもがため息をもらす巨大なタブノキ。その隣りに直立するカヤ。そして南斜面で青々と葉を茂らせる五葉松。樹齢300年をこえる大木は、まぎれもなく江戸時代からここにあり、明治、大正、昭和の時代を通して、まちと川を見下ろしてきた証言者だ。そこには、屋敷林をくぐり抜けて遊んだという手島さん自身の思い出も重なる。