■川辺の町と在郷の人々とのつながり

対岸をじっくり写真と見比べると、2階建ての住宅の中にわずか2、3軒、変わらない家がある。河原町近くから宮沢橋のたもとへ、弓なりに延びるその住宅街を歩いてみた。

いま河原町一丁目となっているこのあたりは、明治期の地図を見ると「元紙スキ町」と記されている。資料によれば、大正の頃まで使い古した紙を漉き直す工場があっという。広瀬川や六郷堀の水を利用するリサイクル工場が立地していたのだ。

宮沢橋たもとの紙漉町

「紙スキ町」の名は、よほど年配の人でないとわからないだろう。マンションと庭木の多い屋敷が隣り合う。

忘れられたような小さな神社を見つけた。「須賀神社」というらしい。近くの小崎敏夫さんが氏子の一人と聞きうかがうと、思いもかけずにいろいろな話を聞かせてくださった。

「いまでこそあんなに小さい境内だけど、俺が子どもの頃は大きな境内でね、祭りの日は、それはにぎやかだったの。中でも六郷、七郷のお参りの人が多かった。農家の人たちがみんなキュウリをたんがいてきて、それがまぁ、山と積まれて…。地元の人はみんなキュウリ神さんっていってたよ」。祭日は旧暦6月15日。カッパ神さまとも呼ばれ、昔はこの日から川での水泳ぎが許された、と以前この稿でも記したことがある。

須賀神社の境内

せまい境内に、ユーモラスな大きな狛犬。大正9年に出雲大社より分霊と、記念碑に刻んであった。

「俺は昭和8年生まれだけど、川では年中泳いでいたような記憶があるよ。通りの向かいには六郷堀の堰守の人が住んでいたし、田んぼに水を入れる頃になると、六郷からは堀の泥上げの人がやってきてたね。俵を3、4俵積んで堀を堰き止めて、泥かきしてから水を流したんだよ。 大雨のときは、六郷の田んぼを守るために堀に水がいかないように止 めてしまうから、 このあたりは、もう水びたしだ。南材小学校のあたりまで水に漬かったよ」。 広瀬川と六郷、そして 川とこのあたり一帯のかかわりを物語る貴重な証言だ。

「でも、あの頃とはもうまるっきり変わったね。みんないつのまにか引っ越していってしまって、その跡はマンションになる。住む人はよそからきた人だ。全然かかわりはないんだよ」。

小崎さんの窓の外には、ツインタワーがそびえる。新しい住人は、須賀神社のにぎわいも六郷堀のせせらぎも知らないだろう。ビルを増殖させながら、仙台は小さななつかしい物語を忘れていく。

暗渠になった六郷堀

六郷堀は、現在は宮沢橋たもとから道路の下を河原町方面へ流れる。かつては開かれていたから落ちる人もいたのだとか。