■“まさあにゃぁ”とよばれた最後の船頭さん

閖上の町は閑散としていた。それでももよ子さんが野菜を卸したという店はまだ2、3軒営業を続けていて、相原食肉店でたずねると、奥の座敷にいたおじいさんが「あぁ、相沢まさんつぁんだね、元気だよ」と家を教えてくださった。

店のある上町あたりは渡し船の船着き場に近かったこともあって、まだ記憶が生きているのだろうか。お勘定をしていたお客さんも「うちのばあちゃん、生きてたら100歳越すけど、渡し舟に乗って河原町まで魚売りに行ってたよ」と話に加わってくれた。

静かな閖上川の渡し場跡付近。遠くに閖上大橋が見える。

さて、最後の船頭、相沢正吉さん(大正14年生まれ)は、かくしゃくとして昔語りをしてくださった。「渡し舟は代々相沢家の家業で、私で5代目ぐれかね。親父は末っ子で末太郎といったんだが、家督さんが継がないというんで引き継いだんだ。いつのまにか“船場の太郎”といわれ、俺は“まさあにゃぁ”と呼ばれることが多くなった」。

舟は元日を除き、朝6時から夜6時頃まで、1日35回から40回往復したという。時間は定めず岸に人がたまれば舟は出た。川の深さは干潮で1メートルほど。舟は浅いところを避ける航路をとって対岸へ向かった。

手こぎ時代は10分くらい、船外機になってからは5分ほどで着いたという。「向こう岸に人がたまると、“ほぉー、ほぉーっ”て呼ばれるもんだった」と奥さんのきよのさんが当時をなつかしむ。

最後の船頭、相沢正吉さん

「しょうきち」と読むのが本当だが、いつのまにか渡し場の「まさあにゃあ」に。手こぎ舟のあやつり方は父親の舟に乗っていつの間にか覚えた。

きよのさんは、藤塚から嫁いできた。「実家に帰るときはもちろん渡し舟だったね」。藤塚からは野菜売りのほか、映画館、買い物など、いわば町場での用をすますために人々がやってきた。閖上からは、魚の行商、通勤の人たちが、ときに荷物運搬用の自転車やバイクといっしょに乗り込んだ。広瀬橋の下流に橋がなかった時代、渡し舟は、仙台と名取を緊密に結ぶ大切な道であり、一番の近道だったのである。

相沢さんの手元には、貴重な書きものが残っている。「閖上渡船場渡船建造費寄付芳名帳」。昭和25年、新造舟をつくるのに、舟を利用する人々が寄付を出した記録だ。それによると、藤塚、種次、井土、二木、そして閖上、それぞれの地区で寄付金をまとめ、総額3万8千円で、閖上の船大工棟梁に発注したのがわかる。身銭を切ってもこの航路を守ろうとした人々の熱意が伝わってくる。

昭和25年、新造舟を作るのに際して寄付が寄せられた。自家渡し舟時代の最後の新造舟だった。

やがて、相沢さんの自家渡船だった渡し舟は、法的な措置で県営となった。「定員12人のところに36人乗せて、座ってる人のおしりに水が着くなんて茶飯事だったが、あんまり乗せんなぁっていわれてなぁ」と相沢さんは笑う。

そして、昭和47年9月14日、閖上大橋竣工の日に、渡し舟は江戸時代以来の歴史の幕を閉じた。相沢さんには、県の土木事務所から、この日付で感謝状が送られた。

閖上大橋架橋のとき、宮城県東土木事務所より相沢さんに贈られた感謝状。