■人々の思いを映し続ける広瀬川

灯籠を流す人々

漆黒の川面を流れていく色とりどりの灯籠。美しい風景だ。

さて、この花火大会は、昭和40年代初め中止となった。不発の玉が対岸に飛び事故を引き起こしたことが原因と話す人もいるが、相澤さんはいう。「何か原因があって中止されたんじゃないと思う。車は増えてくるし、時代の流れじゃない?」。その後も流灯供養は桃源院によって行われていたが、昭和53年、宮城県沖地震のあった夏に取りやめられ、お盆の広瀬橋に集う人の姿はなくなった。

しかし、平成2年、流灯供養は「広瀬川灯ろう流し」として復活。8月20日の送り盆の行事として市民に定着し、この夏で16回を数えるまでになった。花火打ち上げは夜8時だが、4時頃から屋台の並ぶ河原には人が集まってくる。打ち上げ前の期待感がただよう会場は、50年前の小野さんの写真のようだ。

河原のにぎわい

日が落ちると、人手が多くなる。堤防から動かず、花火の打ち上げを待つ人もいる。

河川敷の一角には流灯供養の祭壇が設けられ、読経が響く中、たくさんの人たちが灯籠を川に流していく。右手から赤いのを一つ、左手から青いのをもう一つ。橙のを両手で一つ。それは、祖父や祖母であったり、父と母であったり、戦死した夫であったり、幼い息子であったり……一つ一つがこの川のほとりに暮らした人たちなのだ。中には、流した後、河原に座り込み、沈痛な面持ちで灯籠の行く先をずっと見続ける家族もある。

一方で、屋台のまわりには肩と肩がぶつかり合うほど人が集まり、フライドポテトやタンドリーチキンやカルビ焼の前には、浴衣姿の女の子たちが行列をつくる。私には、はるか200年前、餓えた人々が薄い粥を求めてたどりついた姿が二重写しになる。

花火

花火の後ろには、高層マンション。それでも集まった人は花火に酔いしれる。

都市河川、広瀬川。中でも下流が、どれほどたくさんの役割をになわされてきたか。渦中にいると、それを思わずにはいられない。

餓えた人々を受け入れ、亡くなった人々を追悼し、戦争の後の新しい夢をつくり、都市の暮らしに楽しみをもたらす。仙台がこの川のほとりに生まれて400年、この川面に、私たちはさまざまな時代の悲しみや喜びを映してきたといえるかもしれない。

広瀬川の灯籠流しが終わると夏が終わる、と私はいつも思う。きっと城下町に暮らしていた人々も、川を渡る少し涼しい風にそう感じていたはずだ。


参考文献
『仙台市史7』 仙台市史編纂委員会 昭和28年
『仙台市史 近世3』 仙台市史編さん委員会 平成16年
『七十年史』 仙台商工会議所 昭和42年
『仙台商工会議所百年史』 仙台商工会議所 平成4年
『仙台・川と橋の物語』 関根一郎著 平成3年
『広瀬川の歴史と伝説』 三原良吉著 昭和54年
『河北新報』 昭和26年~42年