■水害を乗り越え、川と暮らす

分かれた四郎丸

六郷側にありながら対岸と同じ”四郎丸”の地名が地図に記されているあたり。川はこの手前を流れていたのだろう。

大竹さんにおもしろい話をきいた。「長町の東側、北日本電線があったあたりを年配の人たちは元河原と読んでいたし、右岸の飯田はもともと六郷飯田ですよ。大雨のたびに、川はあっち行ったりこっち行ったりしていたんです」というのだ。川の中心線はかなりダイナミックに動いてきたらしい。

六郷今泉在住の佐竹清造さんに、流れの変化についてたずねてみた。「今泉近くの四郎丸はもとは対岸の中田分だったものが、流れが変わって六郷側にきた。川はいまよりずっと北を流れていたんですね」。その近くには、古川という地名が残っている。そして、30年ほど前の地形図を見ると、そこには流れの跡が沼となり青く塗られてあった。

六郷は水害の常襲地帯だった。佐竹さんによれば特に昭和25年の水害はひどく、中村近くの堤防が決壊、水は種次、中野一帯の水田を襲ったという。でも、だから常に肥沃な土が運ばれて畑作の適地だったのかもしれない。佐竹さんはいう。「大根、ニンジン、ゴボウはよく育つといいますよ」。洪水がもたらす悲惨さと豊かさの両方を、人々は身をもって知っていたのだろう。

そして、大竹さんは暮らしの中に、夏になれば決まって襲来する台風への備えがあったと話す。「雨が降り始めればもうみんな畳上げ。洪水になれば箪笥がくる、流木がくる…それを楽しみにしてる人さえいたぐらいです」。

ビルの林立する根岸、長町

手前、宮農の跡地にある「宮城県仙台南高等学校」から川岸までビルと住宅が埋め尽くす。もう広瀬橋は見えない。やがて川が見えなくなる日がくるかもしれない。

大年寺山を登り、配水所の近くに立ってみた。小野さんがカメラを構えた場所は見つかったけれど、手前の樹木が大木に育ち広い視野は得られない。その向こうに、せり上がったビル群に姿を隠すように広瀬川が流れている。水量はずっと少なくなり、広瀬橋と千代大橋の間に青く一筋。右岸から田んぼは消え、堤防の中を定められたように流れる川は、都市化に攻め立てられ身を縮めているようにも見える。

“見えない川”ということばが浮かんだ。広瀬橋右岸のビルで、すでに川の姿はかなりさえぎられている。もし八本松にマンションが連なったら、大年寺山から川の姿はほとんど見えなくなってしまうだろう。姿が見えないということは、それだけ存在も遠いということだ。

広瀬橋たもとのビル

広瀬橋の上に立って下流を眺めると、右手は高いビルがふさぎ、川の上の視界は新幹線の高架橋がさえぎる。

仙台の母なる川。静かでやさしい清流。その川の水が流れを変え、ましてや堤防を突き破り押し寄せることなどあり得ない。私たちは漠然とそう信じ、このまちに暮らしている。川とつき合い、川と向き合い、川と生きる─あの洪水の時代にはあった川との濃密な暮らし方を失う中で。


参考文献
『仙台市史 資料編5近代現代1交通建設』(仙台市 平成11年)
『仙台市史 特別編1自然資料1』(仙台市 平成6年)
『宮農百年史』(宮城県農業高等学校創立八十周年記念事業実施委員会 昭和44年)