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広瀬川研究レポート


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広瀬川に残る藩政時代の空間保全に向けて


■藩政時代の「大橋」に関わる空間保全調査

 図−1は、私の研究室で進めている広瀬川に残る藩政期の空間保全調査資料にかかわるもので、特に架橋位置の情報作りを目的に作成したものです。

図−1 安政補正改革仙府絵図と橋杭跡調査を行った橋の位置
図−1 安政補正改革仙府絵図と橋杭跡調査を行った橋の位置

 
 この図では、絵図に描かれている広瀬川の位置と現況河床の橋杭跡調査を行った橋の位置を強調して表示しています。図中の「花壇橋」とは、初代仙台藩主伊達政宗が三の丸に隣接する追廻馬場あたりから、屋敷を設けた対岸の花壇への往来に配慮して架けた橋のようで、長さがおよそ二百間(一間を1.8mとすると約360m)で屋根をつけた廊下橋と言われています。しかし、関連する資料が大変少なく仙台城図屏風などからその姿をうかがい知る程度で、詳しいことはよくわかっていません。花壇橋は1617(元和3)年4月の洪水で大橋とともに流失、架け替えられましたが、1637(寛永14)年6月の大洪水で再び大橋とともに流失し、その後は架けられなかったようです。
 では、藩政期の橋の姿について、誰でも橋の上から河床に残る橋杭跡を確認できる大橋の調査資料を用いて紹介します。

図−2 「現在の大橋の位置」と「藩政期の大橋と思われる位置」
図−2 「現在の大橋の位置」と「藩政期の大橋と思われる位置」

図−2の大橋上流側長方形枠内を拡大して、詳しく示した図が次の図−3です。

図−3 大橋(幅四間半:約8.1m、長さ六十四間:約115.2m)
図−3 大橋(幅四間半:約8.1m、長さ六十四間:約115.2m)

 河床の橋杭跡に重ねた直線は、『御修復帳(神社仏閣諸寺院諸役所萬仏御蔵共建替破損繕被成置候御修復本帳)寛文・延宝・貞享・元禄等の年号記載』の中に収められている大橋の諸寸法を参考にして描いたものです。図中の黒丸は橋杭の一部が残存している箇所です。
 次の写真−3は、現地調査時の様子で上段左側測量ポール(直径3cm)を橋杭跡の中央に立てたところ、右側は橋杭の残存部分で年輪計測のため腐食部分を切削したものです。下段の左右の写真は、画像が明瞭ではありませんが左側が右岸側(仙台市国際センター側)、右側が左岸側(西公園側)でともに河床の橋杭跡を撮影したものです。

写真−3 右岸側(仙台市国際センター側)写真−3 左岸側(西公園側

写真−3 右岸側(仙台市国際センター側)写真−3 左岸側(西公園側
写真−3 大橋上流側河床の橋杭跡の様子
(左:右岸側(仙台市国際センター側)、右:左岸側(西公園側))

 

■最後に

 藩政時代以降の大橋は1889(明治22)年に架け替えた木橋が流失し、1892(明治25)年鉄製のプラットトラス橋3径間となり、1938(昭和13)年鉄筋コンクリートダブルアーチ橋となって現在に至っています。
 広瀬川に架かっていた藩政時代の他の橋(図−1)についても文献調査と現地調査を継続していますが、河床の橋杭跡については、現在の「仲の瀬橋」下流で13箇所、「評定河原橋」上流で4箇所の確認に留まっています。これら橋杭跡の大きさや間隔などの測定からは、未だ藩政時代に結びつくような資料とはなってはいません。
 さて、平成時代に広瀬川にはもう一つ「橋」が増えるようです。ご承知のように地下鉄東西線との関わりで、大橋と仲の瀬橋の中間辺りに架けられる計画です。ただ、この地域は藩政時代の城郭と関わり風情ある地形を残している数少ない空間の一つでもありますから、歴史的景観を生かしながら地形改変を最小限にしつつ、広瀬川への親近感を阻害させないように配慮してほしいと考えています。


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