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広瀬川に関する取り組みの歴史

広瀬川は藩祖伊達政宗公の仙台開府より、都市の発展と不可分の関係を持ち、市民にとっては杜の都の緑とともに、もう一つの仙台のシンボルとして捉えられ、市民生活に多様に関わってきた歴史を有する河川である。
ここでは、時代を大きく「藩政時代」「明治〜昭和初期」「近年」の3つに分け、その取り組みの歴史をまとめるものとする。

藩政時代:生活を支えるための取り組み

 藩政時代においては、木材や物資を運搬するために木曳堀、舟曳堀、木流堀、水田を灌漑するためのため池や六郷堀、七郷堀、また郷六より引かれた四ッ谷用水が張り巡らせられるなど、城下の生活を支えるために水環境の整備が進められた。広瀬川の水は、生活用水、防火用水、農業用水、水車用水など、多様な目的で利用されていた。
 一方で、森林育成が積極的に行われ、またため池も多く造られた。これらの取り組みは、現在、本市が「杜の都」と呼ばれる素地を作り上げるとともに、市内に現存する200程度の池・沼の存在につながっており、藩政時代の取り組みが現在にも活きていることが伺える。

明治〜昭和初期:近代化の中で変化する取り組み

 明治維新以後は、上下水道の整備や水上から陸上への交通・輸送手段の変化など、急速に近代化が進んだことにより、四ッ谷用水、舟曳堀などの多くの堀は藩政時代に担っていた役割を終えた。それらは、やがて埋め立てられ、人々の生活から遠ざかっていった。
 この時代は、産業の振興や生活の近代化の視点を中心として取り組みが進められ、市民と水辺の結びつきは弱まる傾向にあったが、その一方で、三居択発電所、上水道、下水道などといった広瀬川との新たな結びつきが生まれることとなった。

近年:環境を重視した新たな取り組み

 近年は、「明治〜昭和初期」の近代化、さらに高度成長時代の急速な都市化の進展による水質の悪化など、急速に広瀬川の環境が悪化したが、市民と行政が一体となって広瀬川をはじめとする市内河川の清流復活への取り組みが進められたことより、水質等が飛躍的に改善することとなった。
 このような取り組みが、1960〜1970年代にわが国の先駆となる各種条例の制定や、1983年の「21世紀に残したい日本の自然100選(朝日新聞・森林文化協会)」、1985年の「名水百選(環境庁)」、1996年の「残したい日本の音風景100選(環境庁)−広瀬川とカジカガエルと野鳥」の選出に結実したものと考えられる。
 このような経緯を経て、「仙台市のシンボル」として、現在も環境的な視点から多様な取り組みが進められているところである。


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